能登杜氏初の女性杜氏として、和歌山県で美酒を醸している人がいます。和歌山県岩出市にある吉村秀雄商店の藤田晶子さんです。
能登杜氏四天王のひとりに数えられ、"酒造りの神様"や"伝説の杜氏"などの異名をもつ、農口尚彦さんが造る山廃の日本酒に憧れて、そのまま弟子入りした藤田さん。酒造りの奥義を学ぶべく、10年間の修行をし、2013年に「杜氏になりたい」という夢を実現させました。
農口さんの薫陶を受けて、若手杜氏のひとりとして活躍する藤田さんは、どのような日本酒を目指しているのでしょうか。
人生を変えた、運命的な出会い
藤田さんが日本酒と出会ったのは、高校3年生のころ。高校を卒業した後はバックパッカーとして世界中を巡りたいと考えていましたが、親御さんから猛反対されていたのだそう。そんなときに、発酵学者・小泉武夫さんが出演していたテレビ番組を観て、「微生物がおもしろい。これは自分に合っている!」と感じ、東京農業大学へ進学します。
酒蔵に生まれた同級生の実家へ足を運んだところ、日本酒造りへの憧れがさらに膨らんでいきました。「就職するなら、大手の蔵ではなく、より具体的に酒造りを学べる小さな地酒蔵がいい」と思った藤田さんは、全国各地の酒蔵を巡り始めます。
その過程で藤田さんが興味をもったのは、山廃の日本酒でした。そして、知り合いから「山廃造りのすごい人がいる。能登杜氏の農口さんだ」と聞かされます。当時、農口さんは、それまで勤めていた石川県の菊姫合資会社を退職し、同県の鹿野酒造に移籍したところでした。藤田さんは早速、鹿野酒造の見学に赴きます。
「農口さんに会いたかったのはもちろん、蔵の環境を見てみたかったんです。実際に会ってみると、農口さんは憧れていたとおりの人でした。若い人が多く活気のある蔵だったので、迷わず、ここで働こうと決めました」
当時の蔵元と農口さん宛に、熱い想いを込めた手紙を送り、2003年の大学卒業とともに鹿野酒造へ就職します。
おやっさんから学んだ、伝家の麹造り
憧れの農口さんと酒造りをすることになったものの、最初は苦労と挫折の連続でした。
「いざ意気込んで蔵入りしたものの、大学で学んだことが役に立たない職人の世界では、怒られっぱなし。女性は私ひとりだったので、仕事についていくだけで必死の毎日でした。それでも先輩たちが助けてくれて、4年目くらいからはようやく戦力になれたような気がします。ずっと辞めずに続けてこれたのは、おやっさん(農口さん)のもとで酒造りを学べるという喜びでした」
農口さんから本当にたくさんのことを学んだそうですが、そのなかで、現在も酒造りの根幹として肝に銘じているのが、麹造りの重要性です。
「理想の酒を造るのに必要なのは、いかにして米の旨味を引き出せるか。そのための鍵は、麹造りです。おやっさんは、それを『膨らませ、乾かせ、ひなせ』と表現します。蒸した米に麹菌が繁殖し、その菌が米の内部に入り込み始めると、米がぷくっと膨らむのがわかる。それを確認してから、乾かします。最後の『ひなせ』とは麹の甘味が旨味に変わっていく過程に時間をかけるということです。この三拍子を、杜氏になってからも厳守しています」
農口さんの背中を追って、酒造りにまい進してきた藤田さん。2012年に農口さんが鹿野酒造を引退したときに、自分も新天地に移る時期かもしれないと感じ始めます。農口さんに相談してみると、「和歌山の酒蔵が杜氏を探している。行ってみないか」との連絡をくれたのです。藤田さんは即断即決で「やります!」と答えました。
「振り返ってみると、私が杜氏になれるように、おやっさんがレールを敷いてくれていたのだと思いますね」
はじめての土地、はじめての米、はじめての仕込み
こうして、平成25BY(醸造年度)から、吉村秀雄商店の杜氏に就任します。それまで和歌山県に行ったことはなく、事前の知識も皆無だったため、当初は驚きの連続でした。
「まずびっくりしたのは、老朽化した蔵の設備でした。『これで美味しい酒を造れっていうの?』という気持ちでしたね。社長にはどんどん注文をつけて、設備の更新をお願いしました。麹室だけでなく、甑や放冷機、洗米機、冷蔵の酒母室などが、次々と新しいものに変わっていきました」
もうひとつ驚いたのは、和歌山県の気候が、石川県と大きく異なることでした。
「冬場の温度や湿度が違うので、蒸しあがった米の感触がまったく別物で、すごく戸惑いました。和歌山県産の玉栄が、使い慣れていた五百万石よりも硬くて、当初はとても苦労したんです。それでも、年々コツがわかって慣れてくると、玉栄の魅力に引き込まれていきました。硬い米なので、味をのせるために思い切って麹を造るのに適しているんです。私の性格にぴったりでした。
当初は苦労も多かったですが、幸いだったのは、社長が『藤田さんが好きなように酒を造ってくれればいい。あとは我々で売るから』と言ってくれたことです。おかげさまで、自由に伸び伸びと酒造りをさせてもらっています。2年目からは山廃の酒を始めました。徐々に量を増やすことができています」
杜氏になってから、5期目の造りが終わったばかりの藤田さん。ともに働く4人の蔵人は、もっとも年長で30歳。あとは20代という若いチームです。「5年間いっしょにやってきて、頼りになる人が育ってきた」といいます。
理想の酒造りについてたずねると、「おやっさんの良いとこ取りですね。おやっさんの酒が素晴らしいのは、旨味のなかに"品"があることです。濃い味わいなのにずっと飲んでいられるのは、"品"があるおかげです。その"品"を出しつつ、おやっさんの酒よりも、ちょっぴり軽快な仕上がりにしていきたいと思っています」と、話してくれました。
将来の夢は、ポルシェを買うこと
昨年開催されたイベントで、将来の夢を聞かれたときに「いつかはポルシェを買って、ハンドルを握りたい」と話していたことについて伺うと、次のような答えが返ってきました。
「杜氏というのは、会社に雇われた社員ではなく、プロ野球選手のように毎期契約を更新して年俸を決める存在であるべきだと思うんです。自分の努力で、良い酒や売れる酒を造ることで、その蔵の利益を膨らませる。その結果として、杜氏の年俸が上がっていき、高級車が買えるくらいになったらいいなと考えています。そのためには、日本酒にさらなる付加価値をつけて、高い単価で売ることを模索しなければなりません。私の課題は、40%精米の純米大吟醸酒を山廃酒母で造って、自分だからこそ造れる酒に育てることです」
全国にいる女性杜氏は、ここ数年で40人近くにまで増えてきましたが、山廃酵母に注力する藤田さんは異色の存在。今後の活躍から目が離せません。
(取材・文/空太郎)